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――彼に殴られたのは、これが初めてではなかった。
けれど、「愛している女がいる」と、はっきり言葉にされたのは、
今日が初めてだった。頬の奥が熱い。
殴られた衝撃で耳鳴りがしているのに、不思議と痛みは遠かった。ただ、胸の奥だけが、じわじわと冷えていく。
床に座り込んだ私を、婚約者であるはずの、黒崎俊哉(くろさきしゅんや)は見下ろしていた。
そこにあるのは怒りでも、罪悪感でもない。
ただ、鬱陶しそうな視線。
まるで、自分の生活を邪魔する“何か”を見るような目だった。
「なあ、いつまでそんな顔してるつもりだ?」
低く、冷たい声。
まるで、床に落ちたゴミに話しかけるようだった。
ひかるは答えられない。
何を言えばいいのか、分からなかった。
三年前。
俊哉にプロポーズされた日のことを、思い出していた。『お前となら、普通の幸せが欲しい』
そう言って笑った男は、
今、目の前にいる男と本当に同じ人間なのだろうか。「お前さ、自分が“一番”だって、まだ思ってる?」
意味を考える間もなく、背後から女の笑い声がした。
「ふふ……ひどい言い方」
ゆっくりと視線を向ける。
そこに立っていたのは、相沢玲奈(あいざわれな)だった。
今日、初めてこの家に入ってきた女。
背が高く、細い体つき。
よく手入れされた髪。
上品な香水の香り。 余裕のある立ち居振る舞い。派手ではない。
けれど、自分が“選ばれる側”だと知っている人間だけが持つ空気をまとっていた。
対して、久遠ひかる(くどうひかる)は、すっぴんで、色褪せた部屋着。
今日は朝から熱があった。
けれど俊哉は帰宅するなり、
「飯は?」 としか言わなかった。鏡を見なくても分かる。
この場において、ひかるは完全に“場違い”だった。
玲奈はリビングを見回しながら、上品に微笑む。
「素敵なお家ですね」
その言葉に、ひかるの胸が小さく痛んだ。
この部屋のカーテンを選んだのは自分だった。
ソファも、食器棚も、ダイニングテーブルも。少しずつ貯金して、二人で揃えた。
幸せになりたかった。
ただ、それだけだったのに。
「紹介するよ。玲奈だ。これから一緒に住む」
当然のように告げられ、言葉を失う。
一瞬、意味が理解できなかった。
「……どういう、意味?」
やっとの思いで問い返すと、俊哉は苛立ったように眉をひそめた。
「そのまんまだよ。察しろ。お前、もう女として終わってるだろ?」
喉が詰まる。
呼吸の仕方さえ分からなくなる。
「化粧もしない、服も地味。愛想もない。一緒に歩くの、正直恥ずかしかったんだ」
その言葉は刃物みたいに胸へ刺さった。
昔は違った。
俊哉は、薄化粧でも「かわいい」と笑ってくれた。
コンビニ帰りの部屋着姿でも、抱きしめてくれた。いつからだろう。
「お前、女捨てた?」
そう言われるようになったのは。隣で、玲奈が小さくうなずいた。
「そうよね……彼女さん、存在感が薄いんですよね」
「空気みたい」
――空気。
その言葉が、胸の奥を一気に冷やした。
空気みたい。
いても、いなくても変わらない。
必要とされない存在。
ひかるは膝の上で、ぎゅっと手を握りしめた。
爪が食い込むほど強く。
けれど、それでも震えは止まらない。
「家事はちゃんとやってもらうから」
俊哉はソファへ座りながら、当然のように言った。
「玲奈は客人だ。気を遣えよ」
客人。
その言葉に、ひかるはゆっくり顔を上げた。
ここは、自分の家だったはずだ。
なのに。
「……じゃあ、わたしは? 何なんですか」
絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
俊哉は舌打ちする。
「は? 家政婦だろ」
「メシ食わしてやってんだから、感謝しろ」
その瞬間。
頭の中で、何かがぷつりと切れた気がした。
(家政婦……)
ひかるは唇を噛む。
泣いてはいけない。
ここで泣いたら、本当に自分が負けた気がする。
だから、必死に耐えた。
けれど胸の奥では、別の声がしていた。
――どうして、こんなことになったの?
その問いに、答えをくれる人は誰もいなかった。
その知らせは、一本の電話から始まった。雪城沙羅は、自宅のリビングで台本を読んでいた。磨き上げられた大理石の床。大きな窓の外には夜景が広がっている。静寂。ページをめくる指先だけが動く。そのとき、スマートフォンが震えた。画面にはマネージャーの名前。沙羅は視線を落としたまま電話を取る。「……何?」『沙羅さん、大変です!!』声が硬い。それだけで、普通の連絡ではないと分かる。『脚本が改稿されました』沙羅の指が止まる。「改稿?」『はい……第3話です』胸の奥に、小さな違和感が生まれる。だが、まだ表情は崩さない。「それで?」数秒の沈黙。そして――『藤崎優さんとの共演で……ラブシーンが追加されました』世界が、止まった。音が消える。空気が凍る。「……は?」自分でも驚くほど、かすれた声だった。電話の向こうで、マネージャーが息を飲む気配がする。『しかも……かなり濃厚な演出です』沙羅は何も言わない。言えない。視線だけが、ゆっくり台本へ落ちる。震えている。自分の指が。――あり得ない。藤崎優は、自分の元夫だ。かつて誰よりも近くにいた男。同じ家で暮らし、同じベッドで眠り、互いの体温まで知っている。そして……自分を捨てた男。その相手と、ラブシーン?しかも、濃厚な――。「断るわ」即答だった。それは女優としての判断ではなかった。これ以上、自分の感情を揺さぶられたくない。何より、人前でだけは絶対に知られたくなかった。自分が今も優を愛しているなど。雪城沙羅が、藤崎優に未練を残している。そんな噂を立てられることだけは、耐えられない。女王は、誰かを追いかけたりしない。捨てられた女の顔など、絶対に見せない。まして、ひかるにだけは、絶対に知られてはいけない。―――私の方がずっと上だということを、思い知らせるまでは。だが。マネージャーの声がさらに沈む。『それが……局が首を縦に振りません』「は?」『スポンサーが藤崎優の復帰に合わせて、大幅に出資を増やしました。条件はただ一つ……』沙羅の喉が乾く。『“二人の共演を最大限に活かすこと”だそうです』沈黙。長い沈黙。そして沙羅は、静かに電話を切った。リビングに、再び静寂が戻る。だが先ほどとは違う。空気が重い。胸の奥だけが、異様な速さで脈打ってい
夜だった。誰もいないスタジオ。天井から吊るされた照明だけが、静かに光を落としている。セットはまだ未完成。だが――そこに立つ男の存在だけで、空気が変わっていた。藤崎優。五年前、日本中を魅了しながら突然俳優を辞めた男。その優が今、一人でカメラの前に立っている。誰に言われたわけでもない。ただ、そこに立っていた。ゆっくりと目を閉じる。吸って。吐く。その瞬間。優の中で、何かが切り替わった。社長でもない。ただの男でもない。俳優・藤崎優が戻ってきた。けれど、ただ俳優に戻りたいわけではなかった。優には、明確な目的があった。――雪城沙羅。五年前、離婚を告げたとき。沙羅は、驚くほどあっさりと承諾した。縋りもしなかった。泣きもしなかった。まるで、自分から捨てられることなど最初から想定していたように。当時の優は、それを沙羅の誇りだと思っていた。だが、今は違う。事故。ひかるへの脅迫。周囲の人間への攻撃。そして、歪んだ執着。すべてを知った今なら分かる。――あの女は、俺を諦めてなどいなかった。離婚を受け入れたのも、終わったからではない。ただ、自分の中で勝手に「いつか取り戻す」と決めていたのだ。そして今も―――。ひかるを傷つけてまで、自分を振り向かせようとしている。優の胸の奥に、冷たい怒りが湧く。だったら――。今度は俺が、お前の心を折る。暴力でも、権力でもない。女優として。人間として。自分が積み上げてきたものの前で、沙羅自身に負けを認めさせる。そのためには、同じ土俵に立つ必要がある。そして、もう一つ。沙羅が自分から主役を降りた瞬間――。その席には、久遠ひかるを戻す。それが優の本当の狙いだった。だからこそ、俳優に戻る。ひかるの隣に立つために。そして沙羅に、ひかるを超えることなどできないと、自分の目の前で思い知らせるために。背後で、小さな物音がした。「……やっぱり、ここにいた」振り返る。ひかるだった。まだ本調子ではない。それでも、真っすぐ歩いてくる。優の数歩手前で止まると、静かに言った。「橘さんから聞いた」優は何も答えない。だが否定もしない。ひかるの瞳が揺れる。「復帰……するの?」沈黙。それが答えだった。ひかるの喉が小さく動く。「どうして……」優は視線をカメラへ戻
会議室の空気は、凍りついていた。「……正気ですか?」テレビ局編成局長の声が低く落ちる。長机の向こう側に座る男、藤崎優は、一切表情を変えなかった。「正気です」短い返答。だが、その声には揺らぎがない。机の上には脚本が置かれている。タイトル。『愛していると言わせない』脚本家・三枝遼の完全オリジナル。そしてこれは、業界では有名な話だった。――この脚本は、久遠ひかるを想定して書かれている。三枝は公言していた。「この役を演じられるのは、久遠ひかるしかいない」だが、事故が起きた。久遠ひかるは倒れた、もうダメかもしれない。それでも撮影現場は待てない。そこで代役として選ばれたのが、雪城沙羅だった。すでに第1話の撮影は終わっている。編集も完了。あとは放送を待つだけだった。そこへ、優が現れた。まるで、作品そのものを奪いに来た侵略者のように。「撮り直します」優は静かに言う。局長が机を叩いた。「ふざけるな!!どれだけの金が動いていると思っている!」誰もが息を止める。だが優は微動だにしない。「違約金は、すべて私が負担します」ざわめきが走る。その額は、常識外れだ。個人で払える金額ではない。「……社長業は道楽じゃないんだぞ」「道楽ではありません」一拍。そして。「これは投資です」静かな声だった。だが、その奥には、絶対にひかるを諦めないという意志があった。三枝が口を開いた。「俺は最初から言っていた。この役は久遠ひかるだと」局長が睨む。「理想論で現場は回らん!」そのとき、会議室の扉が開いた。全員が振り向く。雪城沙羅だった。白いスーツ。長い髪。微笑んでいる。完璧な女優の顔。「お話、聞かせていただきました」その声は穏やかだった。恐ろしいほどに。沙羅はゆっくり優を見る。「おもしろいお話の途中だったのね、優」何も知らない者が見れば、ただの旧友だ。だが空気が変わる。優は視線すら向けない。「君には別の作品を用意する」「……私を降ろすの?」沙羅は微笑んだまま言った。「もう撮り終わっているのに?」優の声は冷たい。「この脚本は、ひかるのものだ」その瞬間。沙羅の胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。一瞬だけ、笑顔が消える。――また、ひかる。五年前も。そして今も。優の心の中心にいるのは
「東堂を呼べ」 優は低く言った。 その声には、迷いがなかった。 橘は一瞬だけ目を見開いた。 その優の口から聞くのは、事務所設立以来、初めてだったからだ。「……本気、ということですね」「ああ」 短い返事。 だが、その一言に込められた決意の重さを、橘は理解していた。 優はこれまで、どれほど腹立たしいことがあっても、表立って誰かを潰すようなことはしなかった。 自分が社長である以上、感情だけで動いてはいけない。 それが優の信条だった。 だが今は違う。 ひかるの命が狙われ、水谷が刺され、そして自宅まで監視された。 それでも相手は姿を見せない。 まるで優がどこまで耐えられるのかを試すように、少しずつ、少しずつ大切なものを削ってくる。 もう、待っているだけでは守れない。 橘は何も聞かず、静かに一礼して部屋を出ていく。 東堂修二。 表向きは“危機管理コンサルタント”兼、秘書。 だが実際には——芸能界、政財界、警察内部にまで独自の情報網を持つ男。 そして。 優が俳優時代、唯一「裏」を任せていた人物だった。 夜。 事務所の最上階。 重厚な扉が開く。 入ってきた男は四十代半ば。 無駄のないスーツ。 感情の読めない目。 部屋に入るなり、東堂は微かに口角を上げた。「あなたから連絡が来るとは思いませんでしたよ、藤崎さん」「久しぶりだな」「平和だった証拠です」 短い沈黙。 優は東堂を見つめた。 この男なら、表に出ている情報だけではなく、その裏側まで辿り着く。 だからこそ呼んだ。 自分が知る必要のある真実を、どれほど醜いものでも掘り出してほしかった。 そして優は言った。「女優を一人、調べてほしい」 東堂は即座に答える。「雪城沙羅ですね」 優の目が鋭くなる。「……なぜわかった」「最近、“彼女の周囲だけ”妙に事故が多い」 東堂は淡々と続けた。「もっとも——すべて事故として処理されていますが」 空気が冷える。 優はゆっくり腰を下ろした。「どこまで掴んでいる」 東堂はタブレットをテーブルに置いた。 画面には、一人の女優の写真。 まだ二十代前半。 透明感のある笑顔。 優は、その笑顔を見つめた。 自分もかつて、こんな女優たちと同じ世界にいた。 夢を持ち、必死に演技を学び、いつか主演を取りたいと願っ
昨日の夜の、非通知からの通話が切れたあとも、ひかるはしばらくスマートフォンを耳に当てたまま動けなかった。 何も聞こえない。 それなのに、さっきの声だけが頭の中に残っている。『次は、外さないから』 短い言葉だった。 だが、その一言だけで十分だった。 まるで刃物のように、その声が頭の中に残っている。 ひかるはゆっくり息を吐き、震えそうになる手を押さえ込んだ。 落ち着いて。 怖がってはいけない。 恐怖に飲まれたら、相手の思う壺だ。 そう自分に言い聞かせる。 けれど、何を恐れればいいのかさえ分からない。 相手は自分を殺したいのか。 苦しめたいのか。 それとも、もっと別の何かを望んでいるのか。 事故の直前に見た沙羅の姿。 病院で聞いた言葉。 白い花。 脅迫電話。 そして水谷まで傷つけられた。 ひかるの周囲から、少しずつ何かが壊されている。 なのに、相手の目的だけが見えない。 それが何より怖かった。 ——次は、誰? その考えが浮かんだ瞬間。 ひかるの背中に冷たい汗が流れた。 自分なのか。 優なのか。 水谷のように、自分のそばにいる誰かなのか。 分からない。 だからこそ、逃げる場所さえ分からなかった。 その時だった。 ——ピコン。 突然、スマートフォンが鳴った。 新着メッセージ。 送り主は表示されない。 ひかるの胸がざわついた。 開かなければいい。 そう思った。 けれど、見なければ、知らなければもっと怖い。 震える指で画面を開いた瞬間、ひかるの呼吸が止まった。 そこに表示されていたのは—— 一枚の写真。 雨の夜。 アスファルトに倒れている女性。 頭から血を流し、周りには人だかりができていた。 白いヘッドライトの光。 ぼやけてはいる。 それでも、それが誰なのかは一瞬でわかった。「……私……」 事故直後の写真だった。 喉が締めつけられる。 あの夜。 あの白い光。 濡れた道路。 逃げようとしても動かなかった足。 そして、身体を襲った衝撃。 忘れようとしていた記憶が、一枚の写真によって無理やり引きずり出される。 誰が撮ったのか。 なぜ持っているのか。 事故現場にいたのか。 ずっと自分を監視していたのか。 思考が追いつかない。 次の瞬間、またメッセージが届く。
朝の空気は静かだった。 あまりにも——静かすぎた。 FJエンターテインメントの廊下を、橘が早足に進んでいる。 いつもなら、どんな緊急事態でも冷静さを失わない彼女が、今朝ばかりは足音を隠す余裕さえなかった。 ノックも忘れ、社長室の扉を開けた。「社長!!」 優が顔を上げる。 橘が取り乱すことなど、まずない。 その異様さだけで、ただ事ではないと理解した。「どうした?」 短く尋ねた声は、いつもと変わらなかった。 だが、書類から顔を上げた優の胸には、説明のつかない不安が走っていた。 ここ数日、沙羅の動きは明らかに変わっている。 五年前の記録は不自然な形で失われ、ひかるの身には脅迫電話が届いた。事故は偶然ではない。そう確信し始めた矢先だった。 嫌な予感がする。 何かが起きた。 しかも、自分が知らないところで。 橘は息を整える間もなく言った。「水谷が……刺されました」 空気が、凍りついた。 優の瞳から温度が消える。「……誰だ!?」「まだ警察が——」「違う」 優は遮った。 声が低くなる。「誰を担当していた?」 橘の喉が小さく動いた。 答えを口にすることが、事態を決定的なものにしてしまう。そんなためらいが、彼女の表情に一瞬だけ浮かんだ。 そして―――。「久遠ひかるです」 一瞬。 優の世界から音が消えた。 ひかる。 その名前が、優の頭の中で何度も繰り返される。 彼女に何かあったのか。 また、あの女が。 まさか、今度こそ——。 考えがそこまで及んだ瞬間、胸の奥を冷たい手で握り潰されたような感覚に襲われた。 椅子が後ろへ倒れる。 優はもう立ち上がっていた。「場所は!?」「中央総合病院です。命に別状はありませんが——」 最後まで聞いていない。 命に別状はない。 その言葉が耳に入ったのかどうかさえ、自分でも分からなかった。 知りたいのは、水谷の容体だけではない。 ひかるは無事なのか。 怪我はしていないのか。 今、どこにいる―――?。 誰かが彼女のそばにいるのか。 頭の中に疑問が次々と浮かぶ。けれど、どれひとつ答えがない。 その空白が、恐ろしかった。 優はすでに部屋を出ていた。 エレベーターを待つ時間すら惜しい。 階段へ向かう。 一段飛ばしで駆け下りながら、胸の奥で黒い感情が膨れ上
夜のリビングには、古い映画の音だけが流れていた。白黒に近い色調の、恋人同士が静かに抱き合うシーン。窓の外では、雨がまだ降っている。時折、車の走る音が濡れた道路を滑っていった。部屋の照明は落とされ、テレビの光だけが、ぼんやりと室内を照らしている。そのソファには、二人がいた。黒崎俊哉と、相沢玲奈。玲奈は俊哉の膝の上に横向きに座り、腕を首に回しながら、指先で彼のシャツの胸元をなぞっている。まるで、自分だけが愛されていると確認するように。俊哉の手は、彼女の背中から腰へ、ためらいもなく滑っていた。二人の距離は近すぎて、見てはいけないものを見ている気分になる。「この映画、好きな
「顔も、よく見たら大したことないし」私は俯いて、黙っていた。食卓へ落ちる照明の光が、やけに白く感じる。まるで病院の無機質な灯りみたいだった。温かいはずの食卓なのに、そこには何の温もりもない。目の前には、自分が作った料理。少しでも美味しく食べてもらいたくて、材料の少ない冷蔵庫の中で工夫した。以前なら俊哉は「うまい」と言ってくれた。それだけで嬉しかった。でも今は違う。その料理は、二人の悪意を受け止めるためだけに並んでいるようだった。「そういう顔するの、やめて。なんか……私が悪いみたいじゃない」玲奈の声が鋭くなる。その口元には笑みが浮かんでいるのに、目だけは冷たかった。
その日、私は掃除をしていた。誰に言われたわけでもない。ただ、そうしていないと、ここにいる理由が完全に消えてしまいそうだったから。朝から冷たい雨が降っていた。窓の外は灰色で、部屋の中まで薄暗い。以前なら、こういう日は俊哉のために温かいスープを作って、帰りを待っていた。「寒かったでしょ」そう言ってタオルを差し出す時間が、当たり前にあった。でも今、その場所にいるのは私じゃない。私は、ただこの家を維持するためだけに存在している。雑巾を強く絞り、リビングの床を拭く。フローリングに映る自分の姿はぼんやりとしていて、まるで本当に“空気”になってしまったみたいだった。ソファの上には、
朝、キッチンから聞こえてきたのは、見知らぬ鼻歌だった。ダイニングに入ると、相沢玲奈がエプロン姿で立っていた。手際よくフライパンを振り、まるで何年もここに住んでいるかのように。「おはようございます」私に向けられた笑顔は、丁寧で、冷たい。「俊哉さん、朝はトースト派なんですよね?ひかるさん、知ってました?」私は答えられなかった。そんなこと、聞かれたこともなかったから。俊哉は新聞を読みながら、何事もなかったように言う。「ひかる、邪魔」「そこ立ってると暗い」暗い。存在そのものが、邪魔だと言われているようだった。テーブルの上には、私の席はなかった。「今日から、生活費は管理し直